昨年11月に92歳で亡くなった詩人、谷川俊太郎さんの「お別れの会」が12日午後4時すぎ、東京都内で始まった。戦後現代詩を代表する詩人として活躍した谷川さんの人柄と作品をしのび、親交のあった詩人や作家らが集まっている。
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「谷川俊太郎さん お別れの会」は、朝日新聞社や出版社、計20社が発起人となった。祭壇には谷川さんの遺影が飾られている。開会に先立って、関係者が花をささげ、手を合わせた。
会では、作家の阿川佐和子さんによる献杯や、詩人の吉増剛造さんによるあいさつのほか、孫の夢佳さんは「私にとって一番大切な詩を読みたい」とし、1992年元旦の朝日新聞に掲載された「あかんぼがいる」を朗読した。祖父になった谷川さんが「孫」への思いをつづった詩で、夢佳さんは涙をこらえながら読み上げた。
詩人の吉増剛造さん「途方もない人だった」
会の冒頭、詩人の吉増剛造さんがあいさつに立った。「ちょうど半年前、お亡くなりになって、それで今日たくさん新聞社の方もいらっしゃってますが、取材電話で、この人は独りぼっち性が根源にある人ですと申し上げながら、(そういう言葉が出てきたことに)僕自身も驚いて、おそらく若いときにそばに座って、この人の存在の光の力みたいなものに、体がそれを覚えていたんですね」と振り返った。
「この人は途方もない天才でした。半年間、喪に服するような気持ちで過ごしていました」とし、「今朝の3時ごろ、ひらがなで言葉が浮かんできて、起き上がって(メモを見て、眼鏡を取り出して)『ひとりだち』という言葉が浮かんできて、とうとう私たちの心がひとりだちした、あるいは詩もひとりだちした。この谷川俊太郎という、その力によって、私たちの時代がひとりだちしてきた。そういう言葉にたどり着いていました。途方もない人だったと思います」と表現した。
また、谷川さんが「私の夢枕に立った」というエピソードを紹介した。「あいうえおのあ、って言って、本当ですよ。谷川さん、なんでこんなところに出てきてこんなことを言うんだろう、これは谷川さんの全体の奥底にあるひらがなの妖精が僕の夢の中に現れたな、と思いました。途方もない人でした」と故人をしのんだ。
阿川佐和子さん、「俊ちゃん」「佐和ちゃん」で対談も…
献杯はエッセイストの阿川佐和子さんが務めた。谷川さんとの思い出を交えたあいさつは次の通り。
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僭越ながら献杯の辞を仰せつかりました。
本当に今日はたくさんの方々がお集まりになっていて、私は正直なところ、阿川弘之の娘というのは何の自慢にもなりませんけれども、ひとつだけ人生の自慢は、谷川俊太郎さんの遠い親戚というのが自慢で、これを言うときだけは、声高らかに言いたくなるということを、この七十何年唱えてまいりました。
いろんな方とお会いして、「谷川さんと初めて会ったのはいつ?」といわれたときに、「覚えてない」。というのは、物心付いたときには、谷川家に遊びに行っていたような気がして、これはなぜかというと、うちの母の父方のおじさんが、谷川さんのお母さまの妹さんかお姉さんか、要するにおばさんと、うちの母のおじさんが結婚して、谷川家の隣に住んでいたということがありました。
そういう関係で、うちの母は東京女子大に行っていたんですけど、荻窪の学校に行く途中、行き帰りに阿佐谷の谷川家に、ちょくちょく女学生として遊びに行ったり、手伝いに行ったりしていたというところ。
かたやですね、阿川弘之というのは広島出身なんですけど、高校時代から文学をめざしていたものだから、文芸部かなんかやっていて、そのときの講師に、図々しくも谷川徹三さんをお招きしたことがあると。よくそんなことができたものだと思うんですけど。
それでお話を伺って、知り合いになったことがきっかけで、大学(進学)で東京に父が出てきたときに、東京に知り合いがいないもんだから、阿佐谷の谷川家にお訪ねして「高校時代にお世話になりました」って。まあ、自分が師と仰いでいた志賀直哉先生につないでほしいという下心があったに違いないんですけど、とりあえずは谷川家にちょくちょく入り浸るようになった。
そのあと戦争になって、(父…